暦の歴史に陰陽師が深く関わっている理由【暦×陰陽師】

この記事は約6分で読めます。
スポンサーリンク

暦は私たちの生活にとって切っても切れない重要な存在です。

 

 

そんな暦が日本に生まれ、広く使われるようになる過程で、陰陽師が重要な役割を果たしていたことは余り知られていません。

 

 

そこで今回は暦の歴史を紐解きながら、暦の文化が拡大する過程で陰陽師がどのような役割を果たしたのかも紹介します。

 

 

 

 

暦が日本に伝わったのは飛鳥時代

日本で暦を活用する文化が始まったのは推古12年、604年頃とされており、この頃日本最初の暦が作られたと言われています。

 

  

 

この当時は大和朝廷が日本を支配していました。

 

 

大和朝廷は、当時の一大勢力であった朝鮮半島の百済から僧を招き、歴法や天文学を学んで暦を作成したと言われています。

   

 

日本最古の歴史書である日本書紀には、欽明天皇14年、553年の出来事として、百済から暦博士お招きしたこと。

またその際に暦本を入手しようとしたと記されています。

  

  

 

暦の文化も中国から朝鮮半島を通じて、日本に渡ってきたことから、当時の日本の暦は、中国で利用されていた太陽太陰暦の影響を強く受けました。

 

太陽太陰暦とは?【暦の用語解説】
太陽太陰暦とは、古代の中国で使われていた暦です。  太陰暦や陰暦とも呼ばれます。   太陽太陰暦は、大和朝廷の時代、朝鮮半島の百済を介して日本に伝わったとされています。  ...

 

 

  

 

 

暦は朝廷によって管理されていた

太陽太陰暦では、月の満ち欠けによって暦を管理していました。

月が地球を回る周期が約29.5日のため、1ヶ月30日の月と29日の月を作り、イレギュラーに組み合わせます。

さらにそこに閏月を織り交ぜるため、暦の調整は容易ではありません。

 

 

そこで朝廷は、645年の大化の改新の際に律令を定めました。

この時中務省(なかつかさしょう)に陰陽寮(おんみょうりょう)という期間を作り、占い屋天文時暦の管理をさせています。

 

 

なお中務省とは、天皇の補佐を中心とする朝廷の職務全般を担っていました。

大化の改新に定められた律令では8つの省庁が定められましたが、この中で最も重要な省されたのが中務省です。

 

 

非常に重要な役割を担っていた中務省に属する陰陽寮。

そして陰陽霊が担当した暦の管理も、当時は大変重んじられていたことが伺えるでしょう。

 

 

陰陽寮には、「うらのつかさ」という呼称もあったという説もあります。 

 

 

 

近日公開予定:陰陽寮の謎を深堀り

 

 

陰陽師、安倍晴明も陰陽寮の役人だった

陰陽寮という言葉から、陰陽師を連想する人もいるのではないでしょうか。

 

 

陰陽師とは、この陰陽寮の技能部門である本名部門の役人のことを指します。

 

 

そのため実際の陰陽師は、映画やアニメで描かれるような、呪術師や魔術師の類ではありません。

 

 

ただ当時は占いも娯楽の一種ではなく吉凶を占う重要なものとされていたため、天文学を修め占いを熟知した天文道の専門家である安倍晴明は、重要な立ち位置にあったことは間違い無いでしょう。

 

 

ところで、陰陽師という言葉から真っ先に連想される安倍晴明。

 

 

クールな美男子で描かれることが多い安倍晴明ですが、これは虚像であるという説が有力です。

 

 

では実際の安倍晴明とは、 どのような人物だったのでしょうか。 

 

  

 

本当の安倍晴明は全然イケメンじゃない!?残念すぎる実像とは?

 

 

 

 

暦と占いは表裏一体

暦の作成と共に天文や占いを司っていた陰陽寮。

 

 

暦の作成に当たっては天文の知識、そして占いに関する知識が欠かせないものであったと言われています。

 

 

現在でも残る大安や仏滅といった、その日ごとに吉凶が変わると言う考え方。

これは占いをベースに作られています。

 

 

そして占いにおいては、天文の知識は欠かせません。

 

 

そのため暦を作成するにあたっては、 天文と占いの知識も必須であったと考えられます。

 

 

先出の安倍晴明に代表される安倍氏は、平安時代頃から天文を担当する陰陽師として、陰陽寮内で中心的な役割を受け継いでいったとされています。

 

 

一方の暦は、同じく平安時代頃から賀茂氏が専門的に受け継ぎました。

 

 

なお賀茂氏とは、京都の上賀茂神社、下鴨神社の祠官家の一族です。

 

 

賀茂氏の謎を徹底解明!

 

 

 

 

暦はカレンダーや日記のように使われていた

陰陽霊が作成した暦は、具注暦(ぐちゅうれき)と呼ばれていました。

  

 

具注暦には、 陰陽師が占った毎日の吉凶などが細かく漢字で記入されています。

 

 

具注暦時代から江戸時代まで使われていました。

特に平安時代の貴族は、毎日具注暦を参照し、 具注暦に従って行動していたと言われています。

 

 

また具注暦の余白部分に、日記を記す習慣もあったとされており、現在のカレンダーや手帳のような役割を果たしていました。

 

 

 

かな文字の登場で暦の文化はさらに拡大 

 

当初は漢字だけで表記されていた具注暦ですが、時代とともにかなが普及し始めると、かな文字の具注暦、仮名暦(かなごよみ)も登場します。

 

 

仮名暦は具注歴よりもかなり簡略化した、誰もが見やすい表記になっているのが特徴です。

 

 

鎌倉時代末期頃からは印刷技術も発達し、手書き以外でも暦を入手する方法が増えたことから、暦の文化は急速に拡大していきました。

 

 

 

まとめ

暦は朝鮮半島から伝来し、日本で独自の発展を遂げながら人々に親しまれていました。

 

 

見えない未来を予測したいと、暦に記された日々の吉凶に一喜一憂しながら、暦に日記をつけた太古の日本人。

 

 

そこには現代に生きる私たちと何も変わらない、儚くも健気に生きる人々の姿が目に写るようです。

 

 

暗い未来に一縷の光を灯し、人々を導いた天文道の専門家である陰陽師。

 

 

そんな彼らの知識や言葉そのものが、人々の心を平安に保つための呪術であったのかもしれません。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました