”縁切り”
断捨離ブームの流れに乗って、嫌な人間関係も断捨離してしまえばいいとでも言わんばかりに、縁切りのご利益が期待できる神社や寺院を参拝するケースも増えています。
今回ご紹介する京都の最強縁切り寺と名高い、菊野大明神もその一つです。

もちろん幸せになるためには、悪縁は遠ざけなければなりません。
悪縁と繋がったままでは、良縁と繋がる手が空かないからです。
しかし縁切りを願う前に、それが本当に不可避なものなのか考えていただきたいと思います。
なぜなら強い縁切りのご利益が期待できる神社や寺の場合、切った縁の返り血を浴び、そのことでさらなる悪縁と繋がってしまう恐れもあるのです。
京都では安井金比羅宮より恐れられている
菊野大明神は京都にある浄土宗の寺、法雲寺の一角に祀られています。
京都で縁切りのご利益が期待できる神社として有名な安井金比羅宮と比べると、 観光地化されていません。
その分ある種異質な、禍々しい空気が漂う場所でもあります。
御神体も非公開です。

「結婚が決まっている人は、菊野大明神に決して近づいてはならない。」
「揉め事は裁判を起こすより、 菊野大明神でお祈りしたほうが、手っ取り早く解決する。」
今だこのような話がまことしやかに囁かれるほど、京都ではその強力な縁切りのパワーが知られた場所でもあります。
丑の刻参りのメッカであった菊野大明神
今は整然と整えられている菊野大明神ですが、その昔は各所に藁人形が打ち付けられ、願掛けのためにと長い髪が巻きつけられた、一種異様な場所であったとされています。
これについては、一種特異な土着信仰に基づく風習であったと、京都市が作成した立て看板にも記されているほどです。

立て看板の最後は、この一言で締めくくられています。
(法雲寺の)庫裏の東に「菊野大明神」が祀られている。 良縁は結び悪縁は切るという縁切り祈願の神として民間信仰の特異な存在である。
菊野大明神のご利益
菊野大明神は強力に、かつ早急に悪縁を断ち切ることで有名です。
- 男女関係
- 友人関係
- 仕事関係
- いじめやストーカー
- 病気
日常生活を営む中で、どうしても避けられない人間関係。
そのもつれとして生じる上記のような軋轢に悩むことは、長い人生の中で何度もあります。
その時々思い悩み苦しんだ末に、縁切りを神頼みしたいと考えることもあるでしょう。
しかし地元ではこう言われています。
「幸せな人は、菊野大明神に決して近づいてはならない。」
なぜなら、それだけ菊野大明神のご利益は凄まじく、それはあまりに深すぎる闇を孕んでいるからに他なりません。

幸せじゃないから、縁切りを望んでいるのに。
そう思うのが当然でしょう。
しかし縁は、私たちが思っている以上に複雑なものです。
これを認識せずに、しかも菊野大明神のような危険な神に頼るのは、危険を伴います。
縁は万物と繋がっている
人の縁とは、私たちの体内に張り巡らされた血管をイメージすると分かりやすいでしょう。
血管を断ち切れば、血が噴き出します。
そして断ち切った箇所は、自分が縁を切りたいと望んでいる箇所のみと繋がっているわけではありません。
一つの縁を断ち切るということは、そこから派生する他の縁も連鎖的に断ち切ることを意味します。
下世話な例えになり恐縮ですが、両親が互いを憎み合って離別した結果、片親との縁を失ってしまう子供と同じようなものです。
この場合、子供は自分のルーツの半分を失い、そこから得られるはずだった縁を失い、教えを得る機会も失います。

縁を断ち切るということは、そこから付随して数多くの損失を伴うことを忘れてはなりません。
もちろん、断ち切らねばならない縁もあるでしょう。
しかし、安易に縁切りを望むことは危険であるという認識は欠かせません。
特に菊野大明神のように、古来から禍々しいエネルギーの溜まる場所(パワースポット)として知られている場所に祀られている神ならばなおさらです。
禍々しき土地が呼んだ不運と鬼神
古来から法雲寺の建立されたこの土地は、鬼が出るとして人々から恐れられてきました。
それらの災いを鎮めるために、浄土宗の僧侶である 源蓮社清善上人が寺を建立したことが、法雲寺の始まりと言われています。

菊野大明神は、その法雲寺境内の一角に祀られた神です。
菊野大明神の御神体は霊石で、これについては各種言い伝えがあります。
菊野大明神の公式サイトでは、絶世の美女として有名な小野小町への思いを募らせながら、満願成就目前で不遇の死を遂げた深草少将の念が石に宿ったとしています。
話としてはこのようなものです。
不運の人、深草少将の物語
求愛する深草少将に対し、小野小町は100日間毎日小野小町のもとに通って、その思いが真実であることを証明するよう求めます。

深草少将はその言葉に従い、98日間毎日小町の元に通い続けました。
しかし骨の髄まで凍えるほど寒さの厳しい99日目に、悲劇が深草少将を襲います。
疲れ果て、休憩にと腰かけた石の上で、深草少将は凍え死んでしまうのです。
あと1日。
もう1日で願いが叶うはずであった深草少将の無念は、腰掛けたまま亡くなった石に宿り、悪縁を断ち切るパワーの源になっているという説です。
しかし一説では、別の見方もあります。
菊野大明神と鬼神、宇治の橋姫
それは丑の刻参りの元祖であり、鬼神として知られる宇治の橋姫にまつわるものです。
橋姫神社に祀られる鬼神、橋姫が、まだ人間であった頃のお話です。
宇治の橋姫は大変嫉妬深い女性でした。
そんな橋姫に愛想を尽かし、夫は別の女性の元へ逃げていきます。
怒り狂った橋姫は、自分を捨てて他の女の元に走った夫と相手の女性を呪い殺すべく、貴船神社で丑の刻参りを始めるのです。

そしてある日、貴船大明神の御宣託を受けた菊姫は、夫と相手の女性を八つ裂きにして殺害。
橋姫自らは、生きながらにして鬼となりました。
菊野大明神の霊石は、橋姫が貴船神社へ丑の刻参りに通う道すがら、腰を下ろして休憩した場所と言われています。
橋姫の念が石に宿り、生きたまま人を八つ裂きにするほどの強烈なパワーで、人々の縁も粉々に断ち切るとされています。
御身体に宿るのは悲痛な痛みだけ
今となっては、どちらの説が真実なのか、また別に真相があるのかも定かではありません。
ただひとつ言えることは、菊野大明神の持つ縁切りの力は、あまりにも強すぎること。

そしてご霊石に宿るのは、時を超えてなお消えることない悲しみにほかならない、ということでしょう。
悲しみで苦しい縁を断ち切ったとして、そこから本当に、幸いは生まれるのでしょうか。
縁を安易に切るのは危険
「こんな縁、根こそぎ断ち切ってしまいたい!」
「すべての悪縁を断ち切れば、きっと幸せになれる!」
苦しみ悲しみに打ちひしがれる日々の中にあれば、極論に走りたくなるのが人間の悲しい性です。
これは自分自身を守るための防衛本能に端を発しますから、誰もが抱える闇でもあります。
しかし縁とは、目に見えるつながりだけが全てではありません。
悠久の歴史の中で、今ある私たちの幾代もの先祖から繋がる、有象無象様々な縁が複雑に絡み合い、現在の私たちの縁に至っています。

縁の一端を断ち切るということは、これまで均衡を保ってきた目に見えない縁のバランスを崩壊させることを意味します。
もしその縁が、実は他の決して断ち切りたくない縁とどこかで繋がっていた場合、思わぬ災いを被る危険性も否めません。
縁を断ち切るというご利益を得る代わりに、何らかの代償を払わされる恐れもある。
このことは、縁切りのご利益を求めて手を合わせる前に、冷静に考えておく必要があるでしょう。
神々は文明と別の潮流で生きている
断捨離ブームの一環でしょうか。
不要で煩わしい縁も断捨離してしまうというカジュアルな価値観が広まっています。
それに伴い本来は密やかであったはずの縁切り神社や寺も観光地化し、縁を切るという恐ろしい行いのハードルも下がっているように見受けます。
貨幣経済の中にあって、神社や寺院もビジネスとして観光地化する必要に迫られている側面もあり、それもまた致し方ない部分ではあるでしょう。

しかし古来からの土着の神々にとっては、時代の潮流など知らぬ話。
科学では未だ証明しきれないパワースポットが今なお存在し、時に人を励まし、特に脅かしていることも事実です。
私たちを取り巻く環境は大いに変化しましたが、そのスピードに私たちの体や遺伝子は全く追いついていないと言われています。
特に脳は、太古のままの機能である、と。
それと同じように、今なお土着の強いパワーを維持する神社や寺も存在します。
そしてそこには、積年に渡る人間のネガティブな念も集まっているのです。
一説によれば、縁切りのご利益をもたらしているのは、神ではなくそこに宿った人間の念であるとも言われています。
そのため、必ずしもご利益ばかりではないのだ、とも・・・。
菊野神社もその一つではないでしょうか。
おわりに
縁を断ち切れば、必ず返り血を浴びることになります。
自分の目では見えない縁と縁の結びつきを、断ち切ることで、予想だにしない不運が訪れる恐れもあるのです。

それでも縁切りを望みますか。
そこまでして、断ち切らねばならない縁なのでしょうか。
縁切りの神社や寺院い参拝する前には、今一度冷静になって、自分自身に問うてみましょう。
「これで本当に良いのか。」と。
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