日本三大怨霊”崇徳天皇”の人生はドロドロすぎ!毒親育ちで粘着質で双極性障害も?

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「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」

「この経を魔道に回向(えこう)す」

(意訳:天皇一族は、もはや民の上に立つ資格を持たない。
この私は自ら天狗の妖怪となって、天皇一族を必ずや引き摺り下ろす。
そして民の国となるまで、天皇家を呪い続ける。)

血で記された呪いの言葉は、近代になってなお、天皇家を脅かし続けたとも言われています。

血文字の主は、日本三大怨霊の中でも最恐と言われる、崇徳天皇です。

一体何が崇徳天皇を、ここまで駆り立てたというのでしょうか。

不遇の生涯を犯罪者として終えた崇徳天皇

長寛2年、1164年。

反逆者として、まるで見せしめのごとく讃岐国に島流しにされた崇徳天皇は、遠き故郷の土を再び踏む日を願いながら生涯を終えています。

享年46歳でした。

Wikipediaより

毒親、鳥羽上皇の元に生を受け、幾度となく父に翻弄され、騙され、弟に切り捨てられ。
歩み寄りたい思いすらも土足で踏みにじられた人生は、不遇という言葉では語り尽くせぬものでした。

本当の父は祖父だった!?

崇徳天皇に降りかかった悲劇の9割は、崇徳天皇を忌み嫌い続けた実の父、鳥羽天皇からの仕打ちに端を発します。

崇徳天皇がまだ皇子であった5歳の時のこと。

祖父である白河法皇は、強引に実の息子であり崇徳天皇の父である鳥羽天皇に対し、天皇の座を皇子に譲るよう迫ります。

あまりにも不自然な譲位に納得できない鳥羽天皇(上皇)は崇徳天皇に対する憎しみを募らせ、実子である崇徳天皇を”叔父子”とすら呼ぶようになりました。

叔父子。

それはつまり、崇徳天皇が自分の息子ではなく、妻と父(白河法皇)の子であるという意味です。

長講堂木造後白河法皇像

ドロドロの人間関係の中に生まれ落ちた崇徳天皇は、建前上の父により、その人生を狂わされていきました。

止まるところを知らない鳥羽上皇による陰湿なイジメ

崇徳天皇が20歳になった頃、白河法皇は崩御。
これを受け、鳥羽上皇がその本性を顕にし始めます。

Wikipediaより

鳥羽上皇は、20歳の崇徳天皇に対し、若干3歳の異母弟である近衛天皇に譲位するよう迫ります。
5歳の子供であった崇徳天皇に譲位するよう迫られた自分と、同じ思いをさせたかったのでしょう。

しかし体の弱い近衛天皇は、わずか17歳で崩御します。

すると鳥羽上皇は、崇徳天皇の実の弟である後白河天皇を即位させました。

どこまでも、崇徳天皇の存在を軽んじる鳥羽上皇。
これを目の当たりにしてきた弟の後白河天皇もまた、崇徳天皇をあからさまに足蹴にするようになっていきます。

兄弟の直接対決と島流し

若くして天皇の座を追われた崇徳天皇にできることは、歌を詠むことだけ。
父と弟に対する不満を募らせながらも、耐えるしかありませんでした。

そんなある日、父である鳥羽上皇が体調を崩して寝込んだとの知らせを受けます。
父の身を案じ、見舞いに行きたいと申し出た崇徳天皇ですが、その願いが受け入れられることはありませんでした。

その後、面会も叶わぬままに、鳥羽上皇は崩御します。
しかし崇徳天皇は葬儀はおろか、初七日の法要に参列することすら許されない冷遇を受けました。

募り募った崇徳天皇の怒りは頂点に達し、兄弟の直接対決が勃発します。

これが世に言う保元の乱です。

Wikipediaより

崇徳天皇には藤原忠実・頼長、源為義・為朝。
後白河天皇には藤原忠通、源義朝、平清盛が加勢し、崇徳天皇は惨敗を喫します。

兄弟ゲンカに敗れた崇徳天皇は、囚人同様の冷遇を受けた挙句、讃岐で配流されました。
こうして9年もの長きにわたり、崇徳天皇は讃岐国で囚人としての人生を歩むことになります。

ストーカー気質!?崇徳天皇の素顔とは

ここまで肉親に忌み嫌われた崇徳天皇とは、どのような人物だったのでしょうか。

若くして職を取り上げられた崇徳天皇は、幼少から和歌にのめり込んでいます。
繊細で景色が眼前に浮かぶような豊かな表現力は、百人一首に取り上げられたほどです。

Wikipediaより

崇徳天皇が残した和歌から、その人柄を読み解いてみましょう。

「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」

(現代語訳:滝の水は岩などにぶつかると2つに分かれてしまう。現世では、願っても結ばれなかい不運に見舞われた恋人たち。しかし来世では必ずや、結ばれることであろう。)

祖父と母の間に生まれたことして父に疎まれ、実の弟に踏みつけられた自分の人生も重ねているような和歌には、不遇の人生を受け入れ、未来を信じて強く生き抜こうとする姿勢すら見えるようです。

その反面、現世では縁がなかったのだから、諦めて新しい縁を探そう!というポジティブな考え方にはなれない一面も伺えます。

諦めが悪く執着心が強い人物でもあったと言えるでしょう。

そんな真面目でひたむきで健気な性格が、父や弟にとっては、なおさら疎ましく感じられた可能性も否めません。

自作の本を拒絶された腹いせに、血文字で呪詛をかける!?

讃岐国に島流しになってから、崇徳天皇は手書きで本を作成する写本に没頭していました。

ある日崇徳天皇は、弟と弟の住む京都の平安への願いを込めて、5種類のお経を書き写した本を作成します。

写真ACより

これを弟である後白河天皇に届けたころ、後白河天皇に真っ向拒絶されてしまいました。

「こんな薄気味の悪い写本など、どうして受け取ることができようか。呪いがかけられているとしか思えない。」

後白河天皇の対応を知った崇徳天皇は怒り狂います。
自ら舌を噛み切ると、血の海にうずくまりながら、息も絶え絶え自分の血で写本を綴り始めました。

そこに記された言葉。
それこそが、冒頭の文字です。

「呪ってやる。
お前たち全員、末代まで呪ってやる。
必ずや根絶やしにして、天皇家をこの世から排除してやる。」

この出来事以降、爪と髪を伸ばし続け、容貌はまるで夜叉のごとく変わり果てていった崇徳天皇。
こうして崇徳天皇は、生きながらにして妖怪天狗となったともされています。

Wikipediaより

和歌を愛し写本に没頭し、厭われ冷遇されてなお家族を想い続ける優しい人物像と裏腹に、激昂して完膚なきまでに呪いの言葉を吐いた挙句、妖怪になった崇徳天皇。

崇徳天皇のこの極端なまでの二面性が、心の闇の深さを暗示しているようです。

当時から”ちょっと変な人”認定されていた?

ただし、この崇徳天皇が妖怪天狗になった説には、後日談があります。

崇徳天皇は保元の乱以降、犯罪者として島流しにあっていました。
つまり、誰もが崇徳天皇を現役の皇族と認識していなかった、ということです。

犯罪者の烙印を押されてなお、雅に生きた崇徳天皇。

写真ACより

しかし周囲から見れば、元皇族気分が抜けないちょっと変わった人、であった可能性は高いでしょう。
こういったマイペースさや、粘着質な性格が、父や弟の怒りに油を注いだのかもしれません。

怨霊になって生まれ変わるまでに10年もかかった謎

さらに不思議なことに、崇徳天皇が怨霊となって蘇ったと言われるまでには、10年ほどのタイムラグがあります。

時代が下り延暦寺の僧侶たちによる朝廷に対する運動行為や、町中を焼くような大火事が多発したことを境に、崇徳天皇の怨霊による祟りだという噂がまことしやかに囁かれるようになりました。

写真ACより

その後も朝廷関係者が相次いで亡くなるといった事態が発生したため、崇徳天皇の魂を鎮めるための崇徳院廟の設置や、白峯神宮が創建などが行われました。

ただ怨霊となって崇徳天皇がよみがえるまでに、10年もの時間を要した理由は合理的に説明がつきません。

このことから、度重なる災難に対する恐怖心から生まれたこじつけに過ぎない可能性は否めません。

もしそうだとすれば、のんびりマイペースな人物のはずが、あられも無いイメージをつけられ。
その挙句の果てに、祟り神と言われてしまっただけ。
崇徳天皇はただの被害者、という可能性も考えられるでしょう。

真実や、如何に・・・。

おわりに

崇徳天皇は不運な家庭環境に生まれたゆえに、家族には縁薄い人生でした。

素敵な穏やかさと、狂気とも言えるほどの激しさを内包した崇徳天皇は、今では悪縁を断ち切り良縁を結ぶご利益をもたらす神として祀られています。

崇徳天皇の魂を鎮めるために創建された白峯神宮をはじめ、京都の有名な縁切り神社である安井金比羅宮が、代表的です。

白峯神宮より
安井金比羅宮より

家族に縁を切ることを望まれながら、必死に家族にしがみつき。
呪いながらも受け入れられたいと願い続けた崇徳天皇が、祟神として人々の縁切りと良縁に携わるとは。

なんとも皮肉な話です。 

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